体の異状は気になるが
心の異状は気にならない
これでいいのか?

 現代は健康、特に体の健康への関心が高く、多くの人がスポーツを通し健康な体を考え、食生活でも塩分控えめ、1日30品目を腹八分目、それもよく噛んで食べることを心がけ、そのうえ栄養補助食品にまで頼り、生活環境は大変衛生的になり、医療の著しい進歩があり、これでは日本人の2人に1人が80歳の声を聞くわけです。体の健康を考えることも申し分ないのですが、気になるのは心の健康です。私たちは体の異状はすぐ気になりますが、心の異状は気にならないのではないでしょうか?人間とはたくさんの人に支えられながら親子、兄弟、友人、師弟等の間柄に生かされているのです。他人を思いやる心が大切なのに「相手のことはどうでもよい。」「他人のことはかまっていられない。」「自分さえ良ければそれで良い。」これが健全な人間といえるでしょうか。
 官僚の天下りが問題になっていますが、それを当然と思い、天下る度に高額の退職金を手にして喜び、自分が偉いからだと思っているとしたら心の異常者としか言いようがありません。「企業は人なり」と言いながら経営が苦しいと言ってすぐに社員のリストラを考えるようではこれも健全とはいえません。今こそ心の健康を考えたいものです。
 体の健康には偏らない栄養が必要なように、心の健康にも栄養が必要なのです。心の栄養は人の声を聞く、教えを聞く、仏法を聞くことだと思います。聞くといっても聞く心構えが大切です。「心ここにあらざれば、見れども見えず、聞けども聞けず。」と申します。真摯に求めよう、教えを請おうという心で真意を聞く、正しく聞くことが大切なのです。自分の感情で聞くのでは聞いたとは言えないのです。
 先日、大学生の息子を持つ父親が相談に来られました。「私の馬鹿息子はいくら注意をしても遊びにふけり、外泊もしょっちゅう。サラ金からも借金を作りとうとう堪忍袋の緒が切れて、お前なんか出て行け!と怒鳴りつけたら、親の心も分からず『出て行けばいいんだろ!こんな家出て行ってやるよ!』と出て行ってしまいました。どうしたらよいでしょうか?」これでは自分の感情で親の言葉を聞いているのですから聞いたとは言えないのです。邪見や憍慢な心で聞いても真意の声は聞こえないようです。
 親鸞聖人は正信偈に「弥陀仏本願念仏 邪見憍慢悪衆生 信楽受持甚以難 難中之難無過斯」と表されました。「邪見憍慢の人は弥陀仏の本願念仏を信楽受持することは甚だもって難しい。難の中の難これに過ぎたるは無し。」と読ませていただきましたが、何遍も何遍も読ませていただきますと邪見憍慢とは私のことでしたと気付かされます。教えを聞かせていただく中に気付かされたのです。このことに気付かされますと邪見・憍慢な私がいくら努力をしても本願念仏を信楽受持することは難しいというのではなく、邪見・憍慢なこんな私を念仏申す身にさせるには如来は大変なご苦労をおかけ下されたのだなぁと大変難儀をおかけして申し訳ありませんと味わえるのです。しかしなぜか心温まる思いがいたします。やはり死ぬまで聞法ですね。合掌


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