何時でも 何処でも 如何なる時も
哀れみ 慰め 励ましてくださる
如来様と一緒の私でした

 「主人のガンをなんとか治したくて、毎日のように神社仏閣へ足を運び、主人の回復を祈ったのに通じませんでした。3ヶ月前に亡くなってしまったの。結局神も仏もないのね。信仰なんかしても駄目ね。」電車の中でたまたま隣に居合わせた50代くらいのご婦人の会話が耳に入ってきました。この方のように宗教に自分の願いを叶えてもらおうと祈る人が多い。宗教にご利益を求めることは当然でありますが、ご利益とはどんなことでありましょうか?病気が治る。商売が繁盛する。家内が円満になる。試験に合格する。良縁に恵まれる等々自分の欲望が満たされることでしょうか?実際そうした欲望を叶えてもらおうと神仏に祈る人は多いし、現世利益が信仰と思っている人も多いし、実際そうしたことを宣伝する宗教も多い。
 浄土真宗でも現世利益は説いていますが、浄土真宗のご利益は上に書いてきたような事柄とは一味違うのです。質が違うのです。病気で苦しんでいるとき、病気が治れば大変な悦びです。商売が不調の時、繁盛すれば大変有難いことです。家庭の中でいざこざが絶えないとき、家庭が円満になれば大変嬉しいことです。こうしたことを宗教に求めて仮に叶えられたとしても、それは一時的なことで、すぐに他のことで苦しみ、悩むことになるのでしょう。しかしお念仏の世界は私達の悩み苦しみを根本的に解決してくださるのです。病気の時であろうと、健康であろうと、商売繁盛しようとしまいと、災難に遭おうと遭うまいとそうしたことで幸・不幸を左右されることがない安心の心をいただくことが浄土真宗の現世利益であります。
 ですから浄土真宗では、祈ると言うことは言いません。念ずるというのです。どんなひどい災難に遭おうと、どんなひどい仕打ちを受けようと、たとえ死を宣告されようと、こうした私をいつも哀れみ、慰め、励ましてくださる如来様がいつも一緒にいてくださる。心強いことですと念仏の中に気付かさせていただくことができるのです。
 親鸞聖人は「弥陀の五却思惟の願をよくよく案ずれば、ひとえに親鸞一人がためなりけり。されば、そくばくの業をもちける身にてありけるを、たすけんとおぼしめしたちける本願のかたじけなさよ」(歎異抄後序)と弥陀の本願に出会えた悦びをかたじけないことですと常に仰せられたと歎異抄に述べられていますし、ご和讃には「南無阿弥陀仏をとなうれば、十方無量の諸仏は、百重千重囲繞して、よろこびまもりたまうなり」(現世利益和讃)と真の現世利益の心をうたわれておられます。合掌


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