人は幸せを求め
苦の種をまいている

 毎朝、新聞を開けば暗い、恐ろしい事件が目に入ります。事件を起こした人も不幸を求めての行動ではないはずです。自分勝手な利得のために、善悪の分別ができなくなるのだろうと思います。他人事ではありません。縁によっては私も何をするか分からないのです。そんな恐ろしい事件は私は決して起こしませんとは言い切れないと思うのです。なぜなら、人は病気の時は健康を、経済的に苦しいときはお金を、争いが絶えないときは家庭円満が一番幸せと思うものですから、幸せを感ずるときは少なく、いつも何かに悩まされ、迷いの生活を送ることになり、その迷いの度が深くなれば何をするか分からないのではないでしょうか。ですから、迷い、悩む私たちにいつも本当の幸せに目覚め、真の生き甲斐のある感動のある人生を送ってくれよと呼びかけ続けてくださっている仏の声を聞かせていただく必要があるのです。
中国の有名な詩人“白楽天”が“道林”というお坊さんに仏の教えとは何かと尋ねました。道林は

諸悪莫作 衆善奉行


自浄其意 是諸仏教

と法句教にある七仏通戒偈(しちぶつつうかいげ)の言葉を示されました。諸々の悪いことをなさず、善いことを行い、自らの心を浄めること、これが諸仏の教えであると言うことですが、白楽天が「そんなことは3才の子供でも知っている」と言いますと、道林は「3才の子供でも知っているが、80才の老人でも実行はできない」と答えられたそうです。まさにその通りですね。誰でも善・悪の道理はよく分かっているのですが、自己中心の煩悩だらけの私であるがために善行の実行は難しく、悪いことをせずにはおられないのです。そうした私を阿弥陀如来は哀れみ、悲しまれ、苦労に苦労を重ね、思案に思案を巡らし、南無阿弥陀仏のお念仏をお与えくださったのです。仏の教えを何遍も何遍も自分を見つめ反省の中に聞かせていただきますと、自然とお念仏がこぼれてまいるものです。そのお念仏の中に本当の幸せが味わえてくる思いであります。親鸞聖人も

「煩悩具足の凡夫、火宅無常の世界は、よろずのこと、


 みなもて、そらごと、たわごと、まことあることなきに


 ただ念仏のみぞ、まことにておはします」


と、お念仏こそが幸せの道であるとお示しくださったのであります。

合掌


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