迷惑をかけずに 生きられない
世話にならずに 生きられない
いろいろな力で 生かされている私

 自分だけ良ければそれでよい。人のことはどうでもよい。と言うぎすぎすした悲しい恐ろしい世の中では、欲と欲がぶつかり合い、騙し騙され、裏切り裏切られ、傷つけ傷つけられ、悶々とした日々を過ごすことになるのでしょう。そこには当然の姿としていとも簡単に殺人が行われ、不思議な中に賜った尊い命の自覚もないので自殺も増え続け、深いご縁で結ばれたのにちょっとした喧嘩で子供の幸せなど何も考えずにさっさと離婚をし、後になって泣いているのです。子供も産むだけで親になりきれず、育て方も分からないため虐待が後を絶たないし、いじめの問題も子供の世界のことかと思ったら大人の社会にこそ日常茶飯事なのです。こうした苦しみの多き娑婆に生きていますと、何としてもそこから逃れ、怒りも恨みも争いも無い、悦びと安らぎの心が充ち満ちた境地を願うのは自然なことであり、それが彼岸の世界でありましょう。
 あの酷暑に耐えて耐えて乗り切って、やっと爽やかな彼岸の候を迎え、ホッと安らぎを覚える境地だと思います。仏教では怒りも恨みも争いも無い真のやすらぎの境地に至るには六種の行を全うすることが要求されるのです。その行とは


1)布施(ふせ)
  自分のできることを精一杯人に施すことですが、相手に施してあげたという心があると布施ではないのです。
  感謝されるどころか、不足と文句を言われても喜んでさせていただくことが布施の行です。


2)持戒(じかい)
  戒を守ることです。釈尊は5つの戒を示されました。
  不殺生(ふせっしょう):生き物を殺してはいけない。
  不偸盗(ふちゅうとう):盗んではならない。
  不邪淫(ふじゃいん) :淫らな性をしてはいけない。
  不妄語(ふもうご)  :嘘をついてはいけない。
  不飲酒(ふおんじゅ) :酒を飲んではいけない。
  どれも大変なことです。果たしてできるでしょうか。


3)忍辱(にんにく)
  私たちが住んでいるこの世界を仏教では娑婆(しゃば)と呼び、忍土(にんど)と訳され、
  どんな苦しいことも耐え忍んで生きねばならないところなのです。それを行うことが忍辱です。


4)精進(しょうじん)
  目標に向かって努め励み、努力を続けることです。


5)禅定(ぜんじょう)
  法の真実を体得するため、雑念を払い感情を鎮め精神を統一することです。


6)智慧(ちえ)
  物事の現象、実体を自分の感情や先入観で見ず、真実を見極め悟りを開く働きです。


 六つの行(六波羅密)を真剣に取り組めば組むほど、何一つ全うできない自分が恥ずかしく悲しく思えてくるのです。すると不思議に自分は誰の世話にもならず、迷惑もかけず、世の為人の為に善行を尽くして頑張ってきたと思ってきたが、そうではなかった。まったく逆でありましたと気付かされるのです。気付かされますとこんな私を哀れみくださり、心配するな必ず救うと誓ってくだされる如来の本願が嬉しく、自然と念仏がこぼれるのです。六つの行は私ができないことに気付かさせ、俺我、俺我の我をつぶすための方便であったのでしょうか。いずれにしても有難いことです。


 親鸞聖人が「いずれの行もおよびがたき身なれば、とても地獄は一定すみかぞかし。」(歎異抄第二条)と仰られましたが、大きな壁にぶつかり悶々とされる中、法然上人との邂逅により如来の本願に出会うよろこびを得た境地でしょうか。合掌


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